2012年10月3日水曜日

メコンの国:ベトナム>ハノイ


中越紛争で攻め込まれた中国との国境
ハノイ市街





日本大使館
ホーチミン廟
伝統人形劇
懐かしい起き上がりこぶし

以前講談社週間モーニングに「大使閣下の料理人」という漫画が連載されていた。
その時からベトナムと言う国に好奇心を持っていつか機会があれば行ってみたいとおぼろげに思っていた。
今回ラオスからちょっと迂回してハノイに寄ってみた。

1969年南ベトナムサイゴン陥落のニュース報道は、リアルにTVで見た記憶がある。
米軍がヘリコプターで船に非難して、そのヘリを船から海に落とすシーンは、その後も何度か目にする機会があった。
アメリカに負けなかった国ベトナム。
中国からの侵攻を跳ね返した国ベトナム。
1976年南北が統一され、中越紛争からも30年以上が経つ。

日本の都会の様な近代的な景色は、首都ハノイでも見あたらないが、同じ社会主義国ラオスのヴィエンチャンを遙かに元気にした感じの町で、朝から晩までバイクが働き蜂の様に走り回っている。
宿の人たちにウエストポーチや荷物にくれぐれも気を付ける様、何度も注意された。確かに油断ならない雰囲気はある。かといってプノンペンの様な不安な感じはしない。
ただひたすら市内を歩き回ってみるが、活気と自信に溢れた国という印象がした。
私が生まれた戦後高度経済成長の始まった頃の日本もこんな雰囲気だったのではなかったろうかと思う。
今の日本人にはこんなギラギラした活力は失われてしまったと思う。

次回は通りすがりではなく、南も含めてこの国を目的地にじっくり回ってみたい。
中国人民軍が押し込み強盗の様に攻め入ったドンダンの国境を越えて中国雲南省に入る。
この国境は猿岩石が香港からロンドンへの旅で通ったところでもある。

メコンの国:カンボジアの光と影

Killing Field の遺骨
トゥール・スレン博物館

トゥール・スレン博物館
地雷博物館
プノンペンの結婚式
ハネムーン・カー
乗り合いバス
ピックアップトラック 
プノンペン・セントラルマーケット
トレンサップ湖の行商ボート
トレンサップ川のスピードボート

ボートから見たトレンサップ川
1998年毛沢東主義に傾倒してたポル・ポトの死亡、ポル・ポト派解体まで内乱状態にあったカンボジア。それまでの間に文化大革命を模した国民大量虐殺で医者や教師など知的職業従事者を始めとして、国を再建するリーダー層の圧倒的不足で経済的はおろか精神的にも疲弊している様に思える。
トゥーレ・スレン博物館は、その負の財産を記憶する場所である。
もとは高校だった建物を虐殺の収容所として使われた。2万人以上が収容され解放されたときには6人の生存者しかいなかったようだ。本当に普通の高校に鉄条網や独房を設けて、校庭の鉄棒などに人を吊したりしていたようだ。収容された時の一人一人の写真が大量に教室に展示されているが、どの写真も恐怖や怒りなどを見せることなく、ただ虚無に包まれた感情のない視線で写されている。理不尽な運命に抗う意志や気力も奪われてしまう恐ろしさ。そうしないと精神の平衡が保てないとでも言うのか、ただ生きるだけの存在だったことを訴えてくる視線の数々を、是非全ての人に浴びて人間の恐ろしさ、狂気を感じ取って欲しい。
私は霊感などないが、あそこは妙に空気が湿った密度をもってまとわりついてくる。

生き残った人たちの表情は、まだ十分に明るいと言えないかも知れないが、それでも行き交うトラックの上から手を振ったり、市場にはそれなりに活気があり笑顔を見ることが出来る。
博物館からの帰り道、運良く結婚式を見かけた。
心にまとわりついた見えない何かを洗い流してもらう気分で見学する。
日本人の感覚だと許されない事かもしれないが、幸せそうな笑顔に心が洗われる。
この新郎新婦は、この町が解放された時、少年少女で知った者がトゥーレ・スレン収容所にいたかもしれない。もう少し解放が遅れたら彼らは、この場の主役になることが出来なかったかもしれない。そう思うと全ての人の分まで将来ずっとお幸せにと心から祈りたくなる。

何年かして再びこの国を訪れたとき、戦禍を覆い隠す程手放しの笑顔に出逢えますように。




2012年8月25日土曜日

メコンの国:カンボジア>アンコール遺跡アンコール





遺跡に登るのは階段でも急勾配で自己責任



子孫繁栄を祈念した象徴ヨニ

遺跡と一体化した密林



ご来光に臨む群衆

アンコールワットのご来光

バンテアイ・スレイ

バンテアイ・スレイ


クメール遺跡の代表としてしられるアンコール・ワット、アンコール・トムなどは9~12世紀にかけてカンボジア北部からタイ東部に反映したアンコール朝の跡らしい。

タイ東部ピマーイなどアンコール朝の親戚が治めていた遺跡が復元されている。

14世紀にこの地を放棄して19世紀フランス人に再発見されるまで密林に眠っていたこの大伽藍跡は、一ノ瀬泰造(地雷を踏んだらサヨウナラ)に代表されるように、数多くの人を引きつけ魅了する神秘の秘境としてその圧倒的な存在感を今も受け継いでいる。

内戦が終わり、地雷除去も進んだ昨今、一ノ瀬の様に命をかけずとも訪れることが出来る。
観光化が進んでいるとはいえ、今も有数なパワースポットの一つではないだろうか。

メコンの国:カンボジアの子供達

国境の行商人の息子

市場の子供達

市場の子供達
トレンサップ湖のバナナ売り姉弟

トレンサップ湖の部落

井戸で水浴びする姉弟


アンコール遺跡で見かけた子

アンコール遺跡で見かけた子
遺跡の中でかくれんぼ?

遺跡の影で放心しているかの様

 アジアの国々で色んな町を歩いていて、子供達だけはどこも屈託のない笑顔を見せてくれると思っていましたが、カンボジアだけは少し様子が違うように感じます。
市場や部落で子供同士遊んでいる子供達は、無邪気な笑顔を贈ってくれますが、遺跡などに一人で佇んでいる子供達は、何処か違って見えます。

心ここにあらずな子
不安そうな視線を送ってくる子

そもこの子達は、たった一人観光地の遺跡でいったい何をしているのかが判りません。

親を待っているならその間、遊べば良いでしょう
商い中ならバナナ売りの姉弟の様に一所懸命訴えてくるはずです。

何をするでもなくアンコール遺跡のあちこちに、所在なげにぽつんと座っている姿が、生きる気力を奪われた老人の魂が乗り移った様で、他の国や地域に共通する子供達とは異質な点景に見えてしまいました。

数年前まで生き残ることだけに全活力を結集しなければならなかった国だからなのかと想像する事は、先入観に囚われているだけかも知れません。

ですがここの子供達は、今でも生きることに必死なのは確かだと思います。
また近い将来ここの子供達の視線が、他のアジアの子供達と同じくらい、痛くない柔らかいものになることを確かめたい




2012年5月16日水曜日

メコンの国:ラオス>ヴィエンチャン



 ヴィエンチャンのストリート
 市場の電気製品コーナーは携帯ばかり
タイ川を見つめているメコン川の記念碑
 戦没者慰霊碑パトゥーサイ
ランサーン通り
 バスステーション
ラオス・ベトナムの国境

ルアンパバーンからメコン川沿いにヴィエンチャンまでバスで下りました。
本当はボートに乗ろうかと思い船着き場まで行きましたが、なんか良く判らなくてボートの冒険はあきらめました。

ルアンパバーンが自然の中の集落なら、首都ヴィエンチャンは町ですが、都会ではありません。

隣のブロックには大統領官邸があるメコン川近くのゲストハウスに泊まり、町中を歩き回りました。
旅行者向けの酒場やレストランは、このエリアに集中しています。
少し離れたところに市場があり、ラオスの人たちの消費生活をのぞき見ることができます。

必要以上に消費をあおり金儲けを企む事を第一義に考える国から来た人間には、足りればのんびり生きる事を優先する穏やかな微笑に、「そんなに急いでモノやお金を集めたって、あの世には持って行けませんよ。」と言われているような気さえしてしまいます。

それでも携帯電話の需要は高い様で、お店も大小町の至る所にもっとも多く目に付きます。
先進国と違い有線電話がインフラとして普及する前に携帯電話が持ち込まれたのだと思います。日本では70年代にかけて普及した電話というコミニケーションツールが、モバイルのおかげで各家庭に線を引くという大事業をしなくても良い、アンテナで比較的簡便だから一気にインフラ整備が進められているのではないでしょうか。
お国柄にあわせて上手に選択しているのではないでしょうか。

中国雲南省から流れてきているメコン川
ここからタイとの国境沿いを数百キロ南に流れてカンボジアに入って行きます。

今回のラオスは1週間足らずでしたが、いっぺんに好きになってしまいました。
ぜひまた訪れたい国です。